明治
2010年05月08日
ブログ「銅像大好き!」から雑誌へ転載
書籍、『「坂の上の雲」がよくわかる 日清・日露戦争のすべて』に写真転載されることになりました
■借用写真
・大山巌の銅像1点
[著編者 ・出版社]
出版社:(株) 笠倉出版社
価格:1,050 円(税込)
ISBN:9784773015126
発売日:2009年11月25日
担当者の方よりメールがありました。
「突然のメールで失礼致します。
笠倉出版社発行のムック『「坂の上の雲」がよくわかる 日清・日露戦争のすべて』の編集担当、株式会社G.B.の◎◎と申します。
本誌制作にあたり、写真の借用をお願いしたく、ご連絡させていただきました。」
嬉しいかぎりです皆様、どうぞお手にとってください
カゴシマニア
2009/12/12 わんぱくブログより転載
■借用写真
・大山巌の銅像1点
[著編者 ・出版社]
出版社:(株) 笠倉出版社
価格:1,050 円(税込)
ISBN:9784773015126
発売日:2009年11月25日
担当者の方よりメールがありました。
「突然のメールで失礼致します。
笠倉出版社発行のムック『「坂の上の雲」がよくわかる 日清・日露戦争のすべて』の編集担当、株式会社G.B.の◎◎と申します。
本誌制作にあたり、写真の借用をお願いしたく、ご連絡させていただきました。」
嬉しいかぎりです皆様、どうぞお手にとってください
カゴシマニア
2009/12/12 わんぱくブログより転載
2010年03月18日
2008年04月12日
長谷場純孝(鹿児島・串木野駅)
長谷場純孝は藤蔵の息子で、西南戦争では田原坂周囲での戦いにも参戦したが植木の戦いで重傷により戦線離脱。後に自首し、獄につながれるも、出獄後は自由民権運動に参加してます。さらに国会議員を25年勤め、衆議院議長を三回、文部大臣を一回勤めています。
串木野駅には国鉄鹿児島〜川内間開通の功績の顕彰で胸像があります。
その父、長谷場藤蔵は串木野金山の係で、西郷隆盛とも知り合いだったそうです。西南戦争の軍資金のために、要請にあわせて産金量が増えていたらしい。
長谷場純孝 - Wikipedia
この銅像前で本日ラジオでの生放送を行いました。
at 23:41|Permalink│TrackBack(0)│
2008年03月03日
小泉 八雲(熊本市)
小泉八雲、旧名 パトリック・ラフカディオ・ハーン
日本の怪談をまとめた「怪談」を海外で紹介し、日本でも名の知れた作家です。元は新聞記者らしい。
左眼が失明でコンプレックスだったらしく、必ず写真に写るときは
右側を向くか、少しうつむき加減だったそうです。
「むじな」は英語の教科書で読みました。
一番有名なものは「耳なし芳一」でしょうか。下関には「芳一」の木像が祭られていて、すぐ裏には平家の一族の墓があって、なかなか雰囲気がありました。夜行くもんじゃないです、赤間神宮は。
こちらのレリーフは、熊本市内にある小泉八雲の屋敷跡の中庭にあるものです。
小泉八雲 - Wikipedia
at 00:58|Permalink│TrackBack(1)│
2008年01月23日
品川 弥次郎(東京都・千代田区九段南九段下公園)
品川弥二郎(しながわ やじろう)
長州藩の志士で、明治年間に第6代内務大臣になっています。
今回調べるまで何した人か、まったく知りませんでした。
吉田松陰の塾で学び、高杉晋作らと尊皇攘夷に参加し、禁門の変にも出ていたようです。
さらに薩長同盟の連絡役をし、薩摩藩の人質までしてます。
今回の篤姫でもちょろっと出るかも?しれませんね。
品川弥二郎(Wikipedia)
こちらの銅像は大山巌の銅像と並んでいます。場所は靖国神社に面した道沿いにある田安門手前です。
at 22:08|Permalink│TrackBack(0)│
2008年01月22日
大山 巌(東京都)
大山 巌(おおやま いわお)。
こちらは西郷隆盛の従兄弟であり、日露戦争では陸軍元帥でもあった大山巌です。
江川太郎左衛門の江川塾で砲術を学び、「弥助砲」を開発。
寺田屋騒動でも現場に居合わせたようですが、ちょうど2階にいて説得に応じ投降したようです。
奉天会戦は日露戦争の最後の戦いで、日本軍は西郷隆盛の従兄弟の大山巌陸軍元帥です。対するロシアはクロパトキン。ロシア軍の敗因はロシア革命前夜だったため、ロシア軍の忠誠心や統率力が低下していたようです。瀋陽に行った義父が話していたのを思い出しました。
こちらの銅像は品川弥二郎の銅像と並んでいます。場所は靖国神社に面した道沿いにある田安門手前です。
大山巌(wikipedia)
*****大山巌祭*****
西南戦争130周年事業
大山巌 生誕地
西郷隆盛祭
日露戦争祭
at 01:07|Permalink│TrackBack(0)│
2008年01月16日
有栖川宮熾仁親王(東京都・有栖川宮記念公園)
今年の大河ドラマ「篤姫」でも必ずでるはずの方です。
皇女和宮が徳川家に嫁ぎますが、もとはというとこの方の許婚。
時代に翻弄され、恋敵の徳川家と戊辰戦争で剣を交えます。
果たしてどのように描かれるのか、今から楽しみです。
西南戦争ではかつての同志、西郷隆盛と敵対するのでこの人の人生も調べてみたら面白いかもしれないです。
戊辰戦争では西郷隆盛と共に旧幕府軍との戦いますが、西南戦争では政府軍の総大将を務め敵対。
戦後、福岡知事を務めます。
*****有栖川宮熾仁親王祭*****
西南戦争130周年事業
有栖川宮熾仁親王の書(亀山上皇像)
征討総督有栖川宮御督戦蹟
正勝寺(官軍本営跡)
at 01:04|Permalink│TrackBack(0)│
2007年09月13日
西郷 隆盛(鹿児島市・南洲神社)
こちらは西南戦争で亡くなった薩軍の戦没者の墓地、南洲墓地内にある「南洲神社」の境内の中にある小さな像です。
今から130年前の9月24日、城山に立て篭もった薩軍への最後の総攻撃で西郷隆盛は部下とともに岩崎谷にて散りました。
西郷隆盛像は数あれど、南洲神社境内にはこれしかなくて、残念がっていたのですが、先日の南日本新聞で今年12月に新しく陶器製の西郷隆盛坐像が奉納されるというニュースがありました。
これまで陶器でできた像は、山口下関の高杉晋作像だけしか知りませんでした。西郷坐像を作られるのは曾孫で陶芸家の西郷隆文さんによる像です。いまから楽しみです。
南日本新聞で取り上げられたときの記事についてのレビュー
命日の9月24日には毎年、「せごどんのエンコ」と呼ばれる、西郷さんゆかりの地をウォーキングするという企画が行われています。来年が大河ドラマ『篤姫』ですので、盛り上がるのではないでしょうか?
るるぶろぐより
「西南戦争130周年事業」
今から130年前の9月24日、城山に立て篭もった薩軍への最後の総攻撃で西郷隆盛は部下とともに岩崎谷にて散りました。
西郷隆盛像は数あれど、南洲神社境内にはこれしかなくて、残念がっていたのですが、先日の南日本新聞で今年12月に新しく陶器製の西郷隆盛坐像が奉納されるというニュースがありました。
これまで陶器でできた像は、山口下関の高杉晋作像だけしか知りませんでした。西郷坐像を作られるのは曾孫で陶芸家の西郷隆文さんによる像です。いまから楽しみです。
南日本新聞で取り上げられたときの記事についてのレビュー
命日の9月24日には毎年、「せごどんのエンコ」と呼ばれる、西郷さんゆかりの地をウォーキングするという企画が行われています。来年が大河ドラマ『篤姫』ですので、盛り上がるのではないでしょうか?
るるぶろぐより
「西南戦争130周年事業」
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2007年08月11日
東郷平八郎(福岡市・東公園)
日蓮上人の巨大な銅像の手前に30cmの東郷平八郎銅像がありました。あまりの小ささに驚きましたが、精巧に作られていました。
カゴシマニアがゆくより
お盆がきますので・・・
東郷平八郎祭り
記念艦三笠と東郷平八郎
東郷平八郎(神奈川・横須賀 記念艦三笠)
東郷平八郎(鹿児島・多賀山公園)
カゴシマニアがゆくより
お盆がきますので・・・
東郷平八郎祭り
記念艦三笠と東郷平八郎
東郷平八郎(神奈川・横須賀 記念艦三笠)
東郷平八郎(鹿児島・多賀山公園)
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西南の役戦没者慰霊塔(鹿児島市・祇園之州)
こちらは西南戦争での官軍の犠牲者を葬った官軍墓地だったようです。熊本の官軍墓地は戦死者一人一人に木の墓標を立て、後に石の墓標に建てかえられたようです。
対して鹿児島の官軍墓地ってどこかあったかな、と思いましたが熊本のような官軍墓地は残されていません。もともと平地が少ないため、そんな場所を確保できないという理由からなのか、それとも薩軍の総大将である西郷隆盛の絶対的なカリスマのもとでは大々的な官軍墓地と名乗ってしまうと破壊されかねないという理由からなのかはわかりません。。。
鹿児島の官軍墓地に代わるものとしては、護国神社でしょうか。井伊直弼を斬った桜田門外の変で亡くなった有村次左衛門や寺田屋騒動、戊辰戦争、西南戦争で亡くなった方々も祀られていた記憶があります。
西南戦争が終わってしばらくは国の管理の下で墓があったそうですが、次第に荒れ果てたそうです。
西南戦争100周年の際にこの地に慰霊塔をつくることになり、中村晋也巨匠によるモニュメントが作られたようです。
1000名以上の方の遺骨が埋葬されているようです。あまりにも綺麗だったので気付きもしませんでしたが、亡くなった方々の名前の入ったプレートがありました。プレートは慰霊塔が造られるまでの経緯が書かれています。
カゴシマニアがゆくより
対して鹿児島の官軍墓地ってどこかあったかな、と思いましたが熊本のような官軍墓地は残されていません。もともと平地が少ないため、そんな場所を確保できないという理由からなのか、それとも薩軍の総大将である西郷隆盛の絶対的なカリスマのもとでは大々的な官軍墓地と名乗ってしまうと破壊されかねないという理由からなのかはわかりません。。。
鹿児島の官軍墓地に代わるものとしては、護国神社でしょうか。井伊直弼を斬った桜田門外の変で亡くなった有村次左衛門や寺田屋騒動、戊辰戦争、西南戦争で亡くなった方々も祀られていた記憶があります。
西南戦争が終わってしばらくは国の管理の下で墓があったそうですが、次第に荒れ果てたそうです。
西南戦争100周年の際にこの地に慰霊塔をつくることになり、中村晋也巨匠によるモニュメントが作られたようです。
1000名以上の方の遺骨が埋葬されているようです。あまりにも綺麗だったので気付きもしませんでしたが、亡くなった方々の名前の入ったプレートがありました。プレートは慰霊塔が造られるまでの経緯が書かれています。
カゴシマニアがゆくより
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2007年02月17日
西南戦争130周年事業
今からさかのぼること、130年前の明治10年2月17日、西郷隆盛率いる薩軍が明治政府に物申すために鹿児島を立ちました。当時、50年ぶりの大雪が降る中、13000名もの薩摩兵児とともに北上しました。
そういうわけで、西南戦争に関わった、薩軍、官軍の偉人の銅像をご紹介。
【薩軍】
・西郷 隆盛
・田原坂・美少年
【官軍】
・大久保 利通
・谷 干城
・川路 利良
・谷村 計介
・乃木 希典
・西南の役戦没者慰霊塔
*西南戦争ゆかりの地めぐりの旅シリーズ
私がこれまで自分の足で訪ねた西南戦争ゆかりの地のご紹介(「カゴシマニアがゆく」より)
*番外編
・幕末維新の志士達(番外編・朝日新聞広告より)
現在では偽物といわれている、幕末志士たちの集団写真はコチラ。
考えてみればおかしい点が。。。明治天皇がなんで載ってるの!?という疑問があります。
at 17:49|Permalink│TrackBack(1)│
2007年02月05日
谷村 計介(宮崎)
谷村 計介(たにむら けいすけ)。
西南戦争での官軍側の兵士で、熊本城籠城の途中、高瀬にあった官軍本営までの伝令を果たしました。熊本県玉東町の宇蘇浦官軍墓地には鉄のフレームでガードされている墓石があります。谷村計介伍長の墓です。
任務を果たした、軍人の鑑ということから墓石を削ってお守りにした人が数知れなかったそうです。
伝令の勤めを果たしてすぐ、激戦地の田原坂攻略戦に参加しています。17日間の攻防戦のさなか、谷村計介は三の坂にて戦死となります。現在も戦死の地には石碑があります。
谷村計介が生まれた場所も当時は薩摩藩だったことから、官軍についたこと=裏切り者というレッテルを貼られたようです。
戦前の教科書には、立派に勤めを果たした軍人の鑑ということで教科書にも取り上げられたようです。
この胸像は谷村計介が幼少期に鍛錬をしたとされる場所にありました。以前は生誕地にあったようですが、現在は神社の裏にあたる大森公園にあります。
今年は西南戦争勃発130周年。
***谷村計介祭り***
谷村計介(熊本・熊本城)
谷村計介生誕地・墓地 (西南戦争ゆかりの地めぐりの旅)
at 00:21|Permalink│TrackBack(0)│
2006年12月27日
五代友厚(大阪市・大阪商工会議所)
五代友厚。
薩摩藩出身。
薩英戦争の際に、イギリス軍に捕らえられ薩軍からスパイ容疑をかけられ、肩身が狭い思いをしていたとか。
その後、上海に密航したり、欧米留学した後、大阪商工会議所初代会頭に。
生まれは、西南戦争の最後の戦いがあった城山そばです。西郷隆盛終焉の地からほど近いはずなのですが、まだ見つけてません。
鹿児島市泉町の中央病院横の公園には、五代友厚銅像があります。
五代友厚(鹿児島市・泉町)
大阪商工会議所
wikipedia
*写真提供 マロンハットさん
ありがとうございます♪
薩摩藩出身。
薩英戦争の際に、イギリス軍に捕らえられ薩軍からスパイ容疑をかけられ、肩身が狭い思いをしていたとか。
その後、上海に密航したり、欧米留学した後、大阪商工会議所初代会頭に。
生まれは、西南戦争の最後の戦いがあった城山そばです。西郷隆盛終焉の地からほど近いはずなのですが、まだ見つけてません。
鹿児島市泉町の中央病院横の公園には、五代友厚銅像があります。
五代友厚(鹿児島市・泉町)
大阪商工会議所
wikipedia
*写真提供 マロンハットさん
ありがとうございます♪
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2006年09月13日
菊池 寛(大分県・青の洞門)
菊池寛(きくち かん)
青の洞門で禅海和尚が洞窟を掘り続けたという伝説を小説化したのが、菊池寛でした。作品は「恩讐の彼方に」です。現在は青空文庫として、著作権フリーでネットでも作品が読めるようです。
まだ呼んだことはありませんが、道徳の本で読んで感動した記憶があります。小額何年だったかは定かではありません。国語や歴史の題材で使われたんだと思うのですが、いずれも嫌いな教科だった私にとって、なぜかこの「青の洞門」のエピソードと、宝暦治水の薩摩義士の物語と、足尾銅山の田中正造の物語だけは読み物として鮮明に記憶に残ってます。
歴史は暗記で詰め込む授業だったから嫌いだったんです。それにしても、その当時から銅像大好き!のベースができていたんだなwと再確認できました。
青空文庫「恩讐の彼方に」
その他、青空文庫 菊池寛作品集
青の洞門で禅海和尚が洞窟を掘り続けたという伝説を小説化したのが、菊池寛でした。作品は「恩讐の彼方に」です。現在は青空文庫として、著作権フリーでネットでも作品が読めるようです。
まだ呼んだことはありませんが、道徳の本で読んで感動した記憶があります。小額何年だったかは定かではありません。国語や歴史の題材で使われたんだと思うのですが、いずれも嫌いな教科だった私にとって、なぜかこの「青の洞門」のエピソードと、宝暦治水の薩摩義士の物語と、足尾銅山の田中正造の物語だけは読み物として鮮明に記憶に残ってます。
歴史は暗記で詰め込む授業だったから嫌いだったんです。それにしても、その当時から銅像大好き!のベースができていたんだなwと再確認できました。
青空文庫「恩讐の彼方に」
その他、青空文庫 菊池寛作品集
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2005年09月27日
大隈 重信(佐賀・大隈記念館)
大隈 重信(おおくま しげのぶ)。
佐賀藩士で、第7代・18代総理大臣。
副島種臣(そえしま たねおみ)とともに徳川慶喜に大政奉還を薦めるために、脱藩。しかし失敗して佐賀に送り返され、謹慎処分。鍋島直正に時局を説き、上京を薦めるも失敗。
その後、大蔵卿、外務大臣、総理大臣を歴任。外務大臣時代の明治22年10月18日に、暴漢に襲われ爆弾テロ。右大腿部から切断の重傷。
早稲田大学を設立後、16年ぶりに総理大臣になり第二次大隈内閣を組織。
大隈重信でびっくりしたこと。
1.佐賀出身だった
2.右足が義足だった。
3.二回も総理大臣になった。しかも16年のブランクがあるにもかかわらず。
でした。
2の義足でしたが、右大腿部の切断だったそうで、現在も残されていたことでした。
仕事柄、興味津々でした。
木製だと思います。アメリカA.Aマークス社製。
大隈記念館
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2005年04月10日
2004年11月25日
東郷平八郎(鹿児島・多賀山公園)
軍神、東郷平八郎(とうごう へいはちろう)。
日露戦争にてバルチック艦隊の撃破で日本海の制海権をもたらす。
日露戦争100周年ですよ。今年は。
どれだけの人が関心を持って、考えたんでしょうか。
私もまったく関心がなかったんですけど、今年の1月に靖国神社参拝に行ってから、関心がわきました。
ペリー来航以前から、欧米列強の国々がアジアを植民地化しており、明治維新後の富国強兵・殖産興業で大日本帝国として日本国が守られたんですから。
戦争自体。忌み嫌うものですが、時として民族を守るための戦いというものもなければ、日本人は絶滅してしまうと思います。
国論が真っ二つになりかねませんが。
自衛隊派遣とかの問題にも波及しますけど、話し合いでわかる相手だけとは限りませんからね。平和的な解決と武力による自衛権発動という考えは持っていたほうがよいかと思います。
これは以前、お付き合いのあったからの家に飾られていた、平八郎の自筆です。
すごく力があって、勢いのある字ですよね。カッコイイ!
***地図***
多賀山公園
ケータイに地図を持ち出す
***周辺観光情報***
石橋公園(祇園之州砲台跡)
東郷平八郎とは・・・
東郷平八郎関連グッズ
日本海海戦関連グッズ
日露戦争関連グッズ
吉村酒造さんの日本海海戦
***鹿児島観光するなら***
鹿児島市内観光地周遊バス シティビュー (島津興業)
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2004年11月15日
乃木大将夫妻(山口・長府)
乃木大将夫妻。乃木大将が生まれ育った場所にある、乃木神社に建っています。
明治天皇が崩御されたときに、自刃したという話は有名ですね。
戊辰戦争のときに、旗を薩軍に奪われてしまうということが大問題となり、責任を取って切腹をしようとするも引き止められ、以後ずっとそのことを悔やんでいたのだとか。
熊本の植木町は田原坂で有名ですが、車で走っていて見つけたものがあります。
それは、乃木将軍が落馬した場所ということでした。
戦争の最中に落馬したこと自体は、ありがちですけど、落馬した場所が史跡として残されてること自体は不名誉なことですよね。。。
そんなことまで、後の世に伝えられてしまうだなんて。。。
おまけに、司馬遼太郎には小説「坂之上の雲」でケチョンケチョンに言われているようですし。
小説「坂之上の雲」
司馬遼太郎関連DVD・CD等
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***航空券情報***
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